プログラムに記載されていたタイトルは「国際都市・東京と景観法への期待」でしたが、講演の内容をわたくしなりに解釈すると、むしろ「新しい東京の都市戦略:経済と文化の共生」といったところでしょうか。21世紀は都市文化が経済を牽引する時代(すなわち経済と文化の共生)であり、新しい文化の創造には異質なものが集まり衝突することが必要(異質性の共生)であり、その舞台として青山エリアは大きなポテンシャルを持っている…。
そして、この新しい都市戦略の理論的背景として黒川紀章さんから紹介されたのが、リチャード・フロリダ教授(カーネギー・メロン大学、地域経済発展論)のベストセラー
"The Rise of The Creative Class" 『クリエイティヴ階級の台頭』でした。
このフロリダ教授、わたくしも予てより注目していた学者です。ところが、「ホワイトハウスの要人に聞くと、この新しい経済戦略、日本人には知られないよう真似されないようにしているらしい」と黒川紀章さんがおっしゃったとおり、いまだに日本語訳が出ていないようで、わたくし、原著も読んでおりません…。
そこで今回は、まず、この著書に対するニューヨーク・タイムズの書評を(しかも要点だけですが)ご紹介することにしましょう。
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June 1, 2002 - New York Times
Creative Cities and Their New Elite クリエイティヴな都市と新たなエリート
By EMILY EAKIN
リチャード・フロリダ教授の新著『クリエイティヴ階級の台頭』によれば、いまや経済活動の30%近くは、医師、弁護士、科学者、エンジニア、起業家…といった、いわば「考える」ことで生計を立てている人々=「クリエイティヴ階級」によってもたらされている。この比率は20年前の2倍、20世紀初の10倍である。
しかし、このクリエイティヴ系なる新しい担い手の重要性を主張するのは、フロリダ教授が初めてではない。社会学者ダニエル・ベルは、その台頭を30年前に予測していたし、その後も多くの学者が「知識産業」「情報産業」「シンボリック・アナリスト」といった標語を使って論じている。
むしろ、フロリダ教授によって加えられた新たな展開は、こうである。このクリエイティヴ階級は、経済全体にとっては間違いなく恩恵となるものだが、地域単位でみれば、将来像がバラ色だとは、とても言えない。このクリエイティヴ階級は、「いまだかつて私たちが見たことのないほどの、地理的・階級的な格差拡大」(フロリダ教授)を告げるかのように、ある都市には黄金時代を、別の都市には衰亡を、もたらすことになるかもしれない。
その理由は、こうである。旧来の経済理論によれば、労働者は、最も高い賃金を払ってくれる都市に住まうことになる。しかしながら、クリエイティブ階級は特別である。すなわち彼らは、仕事だけではなく、「tolerantな社会環境」や「住民の多様性」が確保されているかどうかで、都市を選択するのである。
それは、ゲイやアーティストがやってくる都市である。多くのゲイやアーティストが集まる都市には、多くのクリエイティヴ階級が集まり、ハイテク産業などが集積し、その結果、高い経済成長を実現しているのである。それは、ハイテク産業においてゲイやアーティストの比率が高いからではない。ゲイやアーティストが多く存在しているという事実が、ソフトウェア・エンジニアや起業家といったクリエイティヴ階級に好まれるような「オープン・マインドで多様性のある都市」であることのメッセージとなっているからである。
これが、フロリダ教授の「クリエイティヴ資本理論」の核心である。
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え?ゲイ?!と思った方も、やっぱりゲイね!と思った方も、つづきをどうぞ。
解説:ゲイとクリエイティヴ
黒川紀章さんの推奨する「クリエイティヴ階級」の話の核心が、じつは、「多くのゲイが集まる都市」に向かっていた、となると、年配の方々は驚かれるかもしれません。残念ながら我が国では、社会的地位や教養があって『Washington
Post』を読んでいそうな方までが、ことゲイに関しては、あたかも『週刊ポスト』のような低レベルの発言を垂れ流しています。グローバルな視点から見れば、それは「井の中の蛙」がニヤケているようなもの、と言うほかありません。
ストレートとゲイとの違いは、「恋愛対象が異性か同性か」という生まれながらの属性であり、それ以上の意味は何もありません。ゲイたちは、いわば遺伝子のハプニングを引き受けざるを得なかった人たち、なのです。
ところが、これまで長きにわたって、ゲイたちは、特定の趣味・嗜好を選び取った人のように勘違いされ、「悪い遊び」「過剰な快楽」というレッテルを貼られ、忌み嫌われるべき存在に仕立て上げられていたのです。そうした非人間的なストレスを受けてきたゲイたちは、現世に対する深い違和感を日常的に抱え、なかには自ら人生を閉じる場合も少なくなかったと聞きます…。
ゲイであることが不道徳なのではなく、ゲイに対する態度こそが、不道徳だったのですね。
そうした反省に立って、いち早く動き出したのは欧州です。これまでEU加盟各国で、「法の下の平等」の観点から「同性婚」の議論が真面目に進められ、昨年イギリスでもその法制化に至ったことは、エルトン・ジョンやジョージ・マイケルらの名前とともに日本でも話題になりましたね。わが国でもようやく、法務省・人権擁護審議会(委員長:塩野宏、東大名誉教授)において、ストレート/ゲイの別を意味する「性的指向」(生まれながらの属性なので「性的嗜好」ではない)に関する議論が進められ、2002年に閣議決定された人権擁護法案の第2条には、「性別」「人種」「社会的身分」などとともに「性的指向」が並んでいます。
フロリダ教授の主張する、クリエイティヴ階級に好まれるような「オープン・マインドで多様性のある都市」、「tolerantな社会環境」や「住民の多様性」とは、このような、ある種のモラル──すなわち、「生まれながらの属性」と「特定の趣味・嗜好」とを結び付けない精神的態度──を人々が体得してこそ、初めて築き上げることができるものなのです。
従ってわたくしが、 tolerant environments を「寛容な」社会環境とは訳さなかったことにも、決定的な意味があります。
寛容な =心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。
tolerant = allowing people to do, say, or believe what they want without
punishing or criticizing them. (allow = to let someone do or have something,
or let something happen.)
すなわち、「寛容な」という日本語は、この場合、「生まれながらの属性」と「特定の趣味・嗜好」とを結び付けたまま(つまりは不道徳な態度を保持したまま)、その趣味・嗜好の低劣性に敢えて目をつむること、を意味するのですから、上述のモラルとはまったく正反対ですね。
こうして実現される「tolerantな社会環境」において、ゲイたちは、「特定の趣味・嗜好」ではない「多様な文化」の担い手として、登場することになります。そこで初めて、ストレートとゲイとが相互にインスピレーションを与え、文化触変を巻き起こし、クリエイティヴな文化的価値が爆発的に生み出される「場」が誕生します。 |
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